15年目の陸前高田市と池坊

震災から15年目の日がやってきました。

陸前高田市だけでも、死者1,557名、行方不明者201名の方々が犠牲となり、多くの人々の人生が大きく変わってしまった日となりました。
しかし、全国の皆さまからのご支援のおかげで、私たちは今日まで、どうにか復興の道を歩んでくることができました。

私が師事していた池坊の先生は幸いにもご無事でしたが、お稽古場とご自宅は津波で流され、避難生活を余儀なくされました。
先生は親類の家に身を寄せ、その後貸家へ移り、さらに知り合いの家の一室を借りてお稽古を再開されました。しかし同じ社中の方も数名が犠牲となり、先の見えない状況の中での再出発でした。

そのような時、池坊の**池坊雅史**事務総長が、遠くからお見舞いにいらしてくださいました。
全国の同門の皆さまからのお見舞いも届けてくださり、池坊の同門は家族のような存在なのだと、胸がいっぱいになる思いでした。

このような大きな災害に遭いながらも、池坊いけばなを続けてくることができたのは、本部のご支援と同門の皆さまの温かいお心のおかげです。
本当にありがとうございました。

それから15年。
先生は二年ほど前にお亡くなりになり、今は特別会員の皆さんがそれぞれの場所で池坊いけばなを伝える活動を続けています。

私は現在、シンガポールの支援で建設されたコミュニティホールでお稽古を行っています。
小学生から高齢者まで、幅広い年代の方々が、いけばなを通して交流し合い、和気あいあいとお稽古ができることを本当にうれしく思っています。

しかし、この震災によって市の人口は三分の二に減少し、子どもの数はさらに少なくなっているのが現状です。

震災の年までの5年間、市内の小中学生を対象に「伝統文化子ども教室」を開催していました。
その年も年10回ほどの教室を行い、最後の商業施設での発表会を終えたばかりでした。

けれど、その教室に通っていた小学一年生の生徒さんが、震災の犠牲になってしまったのです。

教室では、毎回一番前の席に座り、一年生ながら一生懸命いけばなに取り組んでいました。
その姿は本当にかわいらしく、愛おしいものでした。

なぜ、こんなに小さな子どもまで犠牲にならなければならなかったのか。
怒りにも似た悲しさで胸がいっぱいになりました。

子ども教室は、五年間かけてそろえた道具もすべて津波で流され、会場も失われました。
そして、一緒に指導にあたっていた同年代の同門も震災で亡くなり、今もなお再開することができないままです。

あの震災がなかったなら、今どうなっていただろう。
そう考えると、たくさんの人たちの幸せそうな姿が思い浮かび、胸が苦しくなります。

それでも、私たちにできることは、震災が教えてくれたことを忘れず、犠牲になられた方々の分まで日々を大切に生きていくことだと思います。

今日と同じ日が、明日も来るとは限らないこと。
命の終わりは、いつ訪れるか分からないこと。
「いつか会おう」「いつかやろう」という、その“いつか”は、来ないかもしれないということ。

そして、これからも災害に遭うことは避けられないかもしれません。
それでも、一人で乗り越えなくてもよいこと。
多くの人が支えてくれることを信じてよいということ。

あれほど多くのがれきで埋め尽くされた町が、今ではすっかりきれいな町へと生まれ変わりました。
人の力は本当にすごいものだということを、私はこの町で見てきました。

人口が減り、池坊の会員が少なくなったとしても、池坊の伝統の灯を、この東北の小さな町でも絶やさず灯し続けていきたいと思っています。

私の先生は、池坊いけばなは「駅伝」のようなものだとおっしゃっていました。
今、そのタスキを受け取って走っている私は、立ち止まるわけにはいきません。
これからも、そのタスキをつないで走り続けていきたいと思います。

今日は、たくさんの方々の顔を思い浮かべながら、冥福を祈る静かな一日となりました。


  高田松原  松も大きく成長しました